保守カウンセラーさいとうの「カレーは二日目」

日本を愛するカウンセラーがアニメなどサブカルを交えて心の話を繰り広げる

2014年01月

こころの保守カウンセラーさいとうでございます。
週に一回くらいの更新になろうかと思いますが、よろしくお願いします。
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さて、今回は親についてです。
子供は親をよりどころにして育ち、やがて自立します。
ごく当たり前の事ですが、もし、これが逆だったらどうでしょうか?

親が子供をよりどころにしていたら?

そんな恐ろしい話が意外なところに現われているという本があります。
震災ゴジラ! 戦後は破局へと回帰する

この本の中で、宮崎駿監督作品について、興味深い分析があります。
「もののけ姫」、「千と千尋の神隠し」、「ハウルの動く城」、これらにある共通点があると言います。
それは、物語の主人公達は、自分を苦しめる年長者に対し、対決や責任追及などをせず、自分で呪いを解こうと努めるということです。
これを、作者の佐藤健志は「上の世代に何をされても恨むな」という隠れたメッセージだといいます。
その真意を「崖の上のポニョ」で説明しています。

商品の詳細
この物語は、大津波による町の水没を境に世界観が根底から切り替わってしまいます。
人間と海の間にあった対立関係は無くなり、危険な災害であるはずの津波で家を失った人が、手のひらを返したかのように気楽に避難している。
この切り替えはなぜ必要だったのか?それは大津波で得をしたある人物の為です。
それは介護施設「ひまわりの家」の老女です。
ポニョは人間になることと引き換えに魔法を失い、宗介は一生を左右する近誓いを立てさせられた。
しかも彼が心変わりしたらポニョは泡と化して消滅するという厳しさなのに対し、
老女は溺死するどころか車いすなしで歩きまわれるようになった。
「老人が町全体を犠牲にして若返っている」というわけです。
話を美化して角が立たないようにするために、津波のあとの世界はリアルな被害のない、子供の視点での話に切り替え、誰も困らない世界にする必要があったということです。
津波が来る前、宗介の母リサは、ひまわりの家の老女を心配し、宗介とポニョを置いて家をでました。
これも良く考えたらおかしな話です。
子供にとっては不条理で、老人にとっては都合のいい話になっています。
この映画の宣伝スローガンは「生まれてきてよかった」ですが、一体だれのために良かったのか?
これは子供の視点に立った言葉ではなく、その生命力を食い物にしたがる親の視点ではないのかと、作者の佐藤健志は書いています。

もちろん宮崎監督が意図的にそんな作りかたをしたのではなく、無意識にそうなっていたという事なのですが、実はこれだけではありません。
京都大学 藤井聡教授が、ある歌の歌詞に同じものを発見しています。
松任谷由美のBabies are popstarsという曲です。

歌詞全文はこちらをご覧ください。
問題となる歌詞は

地球に降りた Popstars
Babies are popstars
みんな決めたミッションをもっているよ
Popstars, babies are popstars
その未来の ふたりを守るために来た
どんなときもふたりの味方になるよ
Popstars, babies are popstars
その未来の たぶんいちばんのともだち


つまり子供は親を守るために生まれてきたと言っています。
子供の人生は親を守るというミッションであると。
だとしたら、親が死んだあとこの子の人生はどうなるのでしょうか?

この歌詞は、親の人生の長さでしか書かれていません
つまり、子供の視点に立った言葉ではなく、その生命力を食い物にしたがる親の視点なのです。
子供は親にとって都合のいい存在ではなく、ペットのような存在でもなく、老後の面倒をみるための存在でもありません。
もちろん作詞家は意識して書かれたものではないと思うのですが、藤井教授はこう言っています。
大衆の願望を、無意識のうちに読み取って、その大衆の願望がどんなモノかをとりたてて意識、分析しないうちに表現出来てしまうところが超人気アーティストだと。

生きづらさを語るとき、親の問題というのは大きいものです。

もし、上記のように、子供は親の為にあるという空気が現在の日本にあるのだとしたら。
もし、自分の人生を歩まずに、親の望む人生を歩まされていることに生きづらさを感じている人がいたら、
私は岡本太郎のこの言葉をささげます。

「親の顔色をうかがって言いなりになるとしようか。が、それが君自身の人生なんだろうか。
そうじゃないだろう。親の人生をなぞるだけになってしまう。
そんな人生に責任が持てるかい。
自分自身の生きるスジはだれにも渡してはならないんだ。」


自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか (青春文庫)

尊敬できる立派な親も居るでしょうし、そうでない親もいるでしょう。
ただ、どちらにしろ、子の人生は子が決断するものです。
なぜなら、親は子の人生を生きることができません。

自由とは責任が伴うものです。
自分の人生を生きるために、重要な決断をする勇気が必要な場合もあるかもしれません。
しかし、自分の決めた人生という責任を背負う事により、自由に進むことが出来ます。

ではまた次回




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さて、マンガ家によくみられる謎の体調不良というものがあります。
たとえば、デビルマンの終盤を描いていた頃の永井豪先生です。
商品の詳細
体調不良を理由に連載をお休みしていた時期がありました。
一コマ描いては横になり、また一コマ描いて力尽き倒れるを繰り返していたそうです。
物語の終盤は実にエグイ内容で、美樹が人間に殺され、仲間と思っていた飛鳥了がサタンになり、人間側を守る意味を自分に問いながらも最終的に悪魔側に負けるという内容でした。

マンガ家特有の体調不良はただシンドイだけでなく、全身に謎の斑点ができたり、オシリに特大の吹き出物ができたり、など身体に目で見てわかる異変が起きる場合も多々あります。

なぜそのような事が起こるのか?
一つは机の上でずっと描き続け、徹夜も多く、不摂生な生活があります。

もうひとつは感情移入の激しさからくるものだと思います。
マンガ家が絵を描いているとき、描いているキャラクターの表情と本人の顔が同じになるという話があります。
笑っている顔を描くときは、本人も笑っており、泣き顔だと本人も泣き顔になってるというものです。
あしたのジョーを描いていた、ちばてつや先生は、力石が死んだあと、物語中のジョーが生きる目的を失ってさまよう姿に、身も心も同化していたと聞きます。
商品の詳細
人間の無意識は善悪の判断は無いですし、現実と虚構の区別もありません。
現実に人が死ななくても、それと同様のショックは受けるのです。
キャラクターの感じる感情をマンガ家も同じように感じており、その感じた感情を絵に入れていく訳です。
この感情がストレスの多い、憎しみ、悲しみ、絶望などの感情だったら人間はどうなるでしょうか?
マンガ家の脳内では現実と区別なくこれらの感情が体験され、ストレス物質がでていることでしょう。
やがて体は危険を感じ、病気という形でメッセージを発します。
もう止めてくれと体が言っているわけです。
ところが連載中ですし、止める訳にはいかず、描き続ける。
体は病状を強めて強制執行を行います。
このとき、休載となる訳です。

実は全く別の、音楽の世界で同じような現象を目撃しました。
精力的に海外でも活動するロックバンドdir en greyのボーカル 京 です。


彼は作詞の全てを担当し、その内容は悲観的で重い内容です。
パフォーマンスも激しく、一時期はステージ上で自分の胸や口の中をひっかいて血を流していました。
声はハイトーンからデスまで非常に幅広く使いこなします。

そんな京ですが、時折病気で活動を休止する事があります。
突発性難聴、声帯結節、音声障碍などの理由によるものです。
喉の負担が大きいというのはもっともな理由ですが、気になることがあります。

それは、京の感情移入の大きさです。

本人が「自分よりも感情移入して歌う人がいたら見てみたい」というほどに感情移入が激しく、
メンバーもライブ中の京のテンションをスゴイと認めています。
歌詞の内容が悲観的で重いために、この歌詞にとてつもない感情移入をし続けたらどうなるか?
体は危険を感じ、病気でメッセージを伝えます。
しかしツアーはまだまだ続くため、無理をおしてステージに立ちます。
体は病状を強めて強制執行を行い、関係者からの判断もあって中止が決定されます。

病気は無意識に自分で作っている場合があり、それは体からの何らかのメッセージである場合がありますが、
良い悪いは置いておいて、この領域に行かないと表現できないものがあるという事は事実です。

ではまた次回




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さて、エヴァンゲリオンです。
新世紀エヴァンゲリオン TV版 プラチナ コンプリート DVD-BOX (全26話+ディレクターズカット版4話, 660分) [DVD] [Import]
アニメの歴史の中でも、ヤマト、ガンダム級、の大ブームを生んだ作品です。
現在も新劇場版が作られるほどの人気があり、グッズも作り続けられています。

そんなエヴァンゲリオンTVシリーズはある意味で大きな反響をよびました。
それは最終回です。

謎や複線の回収が行われないまま、シンジの内面の話を取り上げて、最後はおめでとうで終わる。
この締めくくり方はファンの間で賛否両論となりました。

実は、北海道で放送された「島本和彦のマンガチックにいこう」というラジオ番組の第220回で、ガイナックス社長、山賀博之がゲスト出演し、これについてある事実を語ったのです。

その内容をまとめるとこうなります。
*エヴェンゲリオンの企画段階で、最終回の方向性は決まっていた。
*しかし、こんな内容でエンターテイメントになるのだろうか?
*よって、スタッフのアイデアが盛り込まれ、エンターテイメント作品になるよう肉付けされた。
*最終回から見て、第一話に近づくほど、後から考えられたもので、スタッフの意見がたくさん入っている。
*あの最終回は庵野監督が最初からやりたかった事だから、見てもビックリしなかった。

ということです。
決してスケジュールがきついからああなったのではなく、あれがやりたかったということです。

そして、あらためて、TVシリーズ最終回「最終話 世界の中心でアイを叫んだけもの」を見てみました。

これは
衝撃です。

もはや心理療法をアニメにしたようなものです。

物語は抑うつ状態のシンジのこころに対し、キャスト全員で対話をつづけ、認知を変えていきます。

エヴァに乗ればほめてくれる。
乗ることにより自分はここにいられる。
じゃあ、乗らなければ自分は自分で居られなくなる。
ここに居場所はない。

つまりシンジは、何かをしなければ自分に価値は無いという視点に立っており、現実に身の回りに起きたこともその視点に合うような理解のしかたやとらえ方をしています。
自分には価値がなく、人に好かれていない、という部分を現実にしたいかのように。
人の言葉、出来事を解釈していきます。

アスカもシンジも、幼いころにお母さんを失っています。
幼児期に母親と離別すると、自分は愛情をもらえない、守ってもらえない、この世は危険だという意識が芽生えて、不安が心の中で大きくなる場合があると言われています。

中盤では自由連想法のように、ひとつの言葉に対して思い浮かんだものを、思いつくままに語るという場面がああります。
無意識にあるものを探す、ひとつのヒントとしてこの方法は用いられます。

シンジは
青い空→温かいもの→慣れないもの→怖いもの→いらないもの→好きじゃない

通常は好ましいイメージである「温かいもの」に慣れず、怖さを感じるあたりに母親との愛着に何か問題があったのかもしれません。

今度は望みを問いかけます。

何を願うの?→不安が怖い?
何が欲しいの?→安らぎが欲しい?
何を求めているの?→嫌わないで!


ここでシンジは嫌わないでほしいという深層心理に出会います。
(シンジだけではなく、共感する全ての人に向けた作りになっています)

怖いものは→拒絶
欲しいものは→接触と承認


そばにいてもいいの?ここにいてもいいの?私の事すき? という言葉とともに授乳シーンが映されるあたりが確信的になります。親と子の愛着障害がテーマになってきます。

(アスカ) ママのところに行かないの?→行きたくない
(シンジ) お父さんの所に行かないの?→行きたくない
どうして?

嫌われるのが怖いから

母子分離の研究では、母親から引き離された子供は三段階の行動変化を示すと言われています。

①抗議の段階 泣きわめきます。
②絶望の段階 元気も食欲もなくなり引っ込み思案になります。
③離脱の段階 次第に周りへの興味を取り戻し、明るくなります。

一見もとに戻ったように見られるのですが、内面に大きな変化があったことが分かります。
それは、離脱の段階のあとに母親に合わせると、子供はすぐには懐かなくなります
喜ばず、まるで母親などいなかったかのようによそよそしくなります

その心理状態が
嫌われるのが怖いから
というものではないかと思われます。

ここでさらに質問が続きます。

何を願うの?→不安の解消
何を求めるの?→寂しさの解消

そしてシンジは自分に価値が欲しいと言います。
自分とは何なのかと問い始めます。

自分を感じているものが自分であり、自分しか自分を理解することも、いたわることも出来ないのだという旨のセリフがつづきますが、シンジは自分が無いから分からないといいます。

今のあなた、今のあなたの周りの人々、今のあなたを取り巻く環境、どれもずっと永遠に続くものではない。
あなたの時間は常に流れ、変化し続けている。
あなたのこころ次第でいつでも変わる。

ミサトやレイの言葉に乗って、シンジは何もない世界に行きます。
そこは自由であるがゆえに何もない空間です。
何もないというのは自由すぎて不安になります。
ここで地面を設定すると、シンジは少し安心します。
しかし、それは皮肉にも少し不自由になった状態なのです。

シンジは自分以外の存在があるという事は重要な事だという事に気がつきます。
自分以外が居ないと自分が分からない。
他の人がいるから自分が分かる。
一人はどこまで行っても一人。


一番最初の他人は母親。自分とは違う人間。

ここでシンジは気がつきます。
多くの自分じゃないものがあるから、自分が分かることに。
(これは攻殻機動隊ghost in the shellでも語られていたので、別の機会に取り上げます)

「ボクはボクなんだ。しかし、他の人がボクのこころの形をつくっているのも確かなんだ。」

自分自身は自分にしかコントロールできない。自分が他人をどのようにとらえるかもコントロールの内。
他人も同じ条件なので、関係性は変えられるし、常に変わっていく。
他人は自分をコントロール出来ないが、自分との関係性に影響を与えることはできる。
それをどう受け止めるかも自分でコントロールできる。

ここで、急に軽いノリの学園ドラマが展開するのです。
当時はこの急展開の意味が分からなかったのですが、今なら理解できます。
これは、解決思考ブリーフセラピーで言うところの、ミラクルクエスチョンに似ています。

ミラクルクエスチョンとは
自分自身のすべての問題が解決したら、いったい自分はどんな生活を送っているだろう?
というもので、ありありと映像で想像して解決像を築く方法です。

まさかエヴァの中でこれをやっているとは思いませんでした。

実際、アニメの中でこのクエスチョンは成功します。
シンジはエヴァのパイロットではない自分という存在の可能性に気がつきます。
いわゆる未来時間が変わったのです。
いろんな可能性があること、それを自分で選択できること。
シンジは自分がキライですが、好きになれるかもしれないという事も。

ここでセットが崩れ去ります。
エンターテイメント作品の力が必要無くなり、物語の結論、監督の言いたかったことが直球で表現されます。

ボクはここに居てもいいんだ!


自律の瞬間、自己同一の完成です。
自分で律すると書いて自律です。
ピアノの音を整えるのに調律という言葉を使いますが、それの自分版です。
自分で自分を整えることが出来ました。

そりゃおめでとうですよ!
祝福です。

生きづらさからの解放です。

私は、「アダルトチルドレンとは機能不全家族の出身である」という定義はおかしいと思っています。
それ以外にも居るでしょうし、そうじゃない人もいるからです。統計学上効果が認められた実験もありません。
なので、アダルトチルドレン的な悩みを持つことを「生きづらさ」と勝手によんでいます。
このエヴァンゲリオンがこれだけヒットしたことは、アニメとしてすぐれていただけではなく、行きずらさに共感した人が沢山いたからではないかと思うのです。

では最後にエンディングの言葉をみなさんはどうとらえるでしょう?

父に、ありがとう
母に、さようなら
そして、全ての子供たちに
おめでとう


ではまた次回


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さて、前回は「自殺者1万人を救う戦い」という動画について語りました。
「生きていればいい事あるから頑張って生きよう」という言葉は、自殺者から見ればあまりにも冷たいという事でした。

今回は逆といいますか、この動画の中の温かい言葉について語っていきます。



この動画の後半で、退職後に東尋坊で餅屋さん(自費で開業)をしながらパトロールを行っているおじさんが登場します。
自分で出来ることをやっていらっしゃるその姿は脱帽ものなのですが、インタビューにでてきた「ある言葉」に、私はピンときました。
それはコレです。

「国民の命は国の財産。宝でしょ。」

おじさんは自殺者ひとりひとりを国の宝だとおっしゃいます。

そうなんです。おじさんは個人的な事よりも、日本を思って活動してらっしゃるのです。
おじさん自身、結構年配の方ですから、自分自身の死がリアルになっている事でしょう。
おそらくですが、悔いのない人生にしたいと思って、はじめられた事。
それが、自殺者(国の宝)を守る事だったわけです。



おおみたからという言葉があります。
元元とか、百姓とか、大御宝という漢字があてはります。
初代神武天皇が天照大神に建国を誓う宣言として、日本書紀にこう記されています。

恭みて宝位に臨みて、元々を慎むべし」

百姓、つまり国民は国の元の元であり、であるという事です。

日本は現在でも、国会で決まった法律、総理大臣等の任命などには天皇の許可が必要です。
昔から国の政治を取り仕切るのは力のある実力者だったわけですが、それでも天皇の許可が必要でした。
そして、その実力者は国民、すなわち大御宝(おおみたから)を天皇から預かるという立場になります。
たとえ権力者であっても、海外の王様のように、国民を家畜同然に扱うことはできませんでした。

東日本大震災で、被災者のもとを訪ねられた天皇皇后両陛下の立ち振る舞いにその考えが表れていると思います。



会社の役員が名も知らぬ大勢の平社員のもとに赴いて、このように膝をついて個別に何時間も話を聞くことができるだろうか? と考えると、天皇の国民への思いは傑出していると思います。

そして、その一人ひとりの国民が現在は1億2000万人になっている訳です。

日本語のように日本でしか使われない言葉にも関わらず、勉強、技術の習得、研究などの専門書や資料の多くは翻訳も含めて日本語で書かれています。
海外では何かを学ぶとき、母国語以外の言葉を学ばないと先に進めないというハードルが結構ある事を考えると、これは非常に豊かな状態なのです。

また、日本のマンガ文化もそうです。
これだけの数の国民が居て、マンガを読む層や世代が広がって、売れっ子作家から同人作家までのすそ野の広がりがあり、独特の大きい市場が出来上がったからこそ、世界を夢中にさせる作品が次々と生み出されている訳です。
何気なく読んだマンガというのは、読む人、作る人、売る人、一人ひとりの賜物であります。

スポーツもそうです。
何気にあらゆるスポーツを日本人は行っており、夏季冬季どちらのオリンピックも幅広く選手が出場しています。
そして、成績も良い訳です。
こんなに幅広いジャンルのスポーツが出来る土壌がある国というのは珍しい方で、意外にもイギリスではスキーのジャンプが無かったりします。

また、日本のGDPの7~8割は内需です。
日本で作り、日本で消費される訳です。
もし外国に売らないと成り立たない産業ばかりだったら、外国の事情というコントロール出来ないものによって売れなくなることがあります。それは国民が貧しくなるという事です。

仕事があっても無くても、消費者であることに変わりはなく、使ったお金は日本の誰かの給料となり続けます。
たとえただでマンガを読んでも、一読者に変わりはなく、マンガ表現の読解力向上になります。
上手でなくてもなにかスポーツや趣味をするだけで、すそ野の広がりになります。
普段何気なく一人ひとりが生活しているだけで、とんでもない大きな恵みになっています。


国民の命は国の財産。宝でしょ。」という言葉の重さがヒシヒシと伝わってきたわけであります。

ただ生きているだけで、日本の宝なのです。







あけましておめでとうございます。

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今年も生きづらさを抱える方たちに、何らかの参考、力になれればと思い書いていきます。
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さて、今回はアニメネタは無く、昨日たまたま見た動画について書いていきたいと思います。


「自殺者1万人を救う戦い」という動画です。
アイルランド人が日本の自殺について調べ、いろんな専門家にインタビューし、原因や問題点を熱く語る大変珍しく、そして素晴らしいものです。
この動画を作った要素に、二つの視点があると思います。

ひとつは 自殺は悪いこと
もうひとつは 自分の周りや身近な人が自殺した経験のある人が中心となっている事です。

これらの視点から見ると自然なのかもしれませんが、私は終盤のあるシーンが気になって仕方ありませんでした。

それは

「生きていれば必ずいいことがあるから、頑張って生きよう」という言葉のアップです。

この言葉を書いた人はなんの悪気も無いでしょう。
それどころか自殺が思いとどまるようにと、善意で書いたのだと思います。
しかし、それはあくまで生きていればいい事有る側の言葉です。
自殺を考えている人にとっては、あまりにも冷たい言葉として解釈される可能性を理解していないと思います。

まず、私の立場を申しておきます。
ひとつは 自殺の全てが悪い事ではない。
もうひとつは 自分自身が自殺未遂経験がある。

というものです。
これを踏まえてもう一度「生きていれば必ずいいことがあるから、頑張って生きよう」という言葉がなぜ冷たいのかを見てみましょう。

この言葉の問題は、自殺する側の立場が抜けている事です。

あくまで生きていて、いい事が有った立場から書かれています。
ある意味、嫌味に聞こえるのです。
希望は有るんだというメッセージでは有るのですが、自殺者との温度差が開きすぎています。

分かりやすくたとえるならばこうです。

人生一度も彼女が出来なくて悩んでいる男性がいるとします。
その人に対して、リア充な人物が
彼女作れば? きっとできるよ」 
と言ってるようなものなのです。

彼女が出来ないというひとつの悩みが、あらゆるものに拡散し、人生全てが苦痛になり、明日が来ることが憂鬱で、眠りについたまま目覚めなければいいのにと思うような日々を過ごし、心が折れ、ついに死ぬ時が来たと行動を起こす自殺者にかける言葉としては、デリカシー無さ過ぎなのです。
そんなあやふやな希望のために、まだまだ死んだ方がマシな苦痛の日々を続けろというのかと。

ある程度充実した人生を送っている人と、自殺を行動に移そうとしている人との温度差は、とんでもない開きがあります
人生としてはまったく別物で、共通することが無いと言っていいくらい違うものなのです。
だから、ふつうの励ましが嫌味になるくらいの差が出てしまいます。
自殺を実行に移す場所に掲げる言葉としては場違いで、もっと軽傷な人に向けてのメッセージではないだろうかと私は思います。

この動画は自分の周囲で自殺があって、もう誰にも自殺してほしくないという心の傷を負った結果行動していることは確かだと思います。
それは大変価値のある素晴らしい行動ですし、それで救われる方がいることも事実です。
そこに自殺を考えた側の視点を入れることによって、自殺という問題がより浮かび上がると思います。

終盤に登場する東尋坊のおじさんが、非常に重要な発言をしています。
それについてはまた次回






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